劇評

TAICHI-KIKAKU 「喜びの島 ~2014〜」によせて
寳玉義彦(詩人)

  詩を書いているとしばしば、それを書かずにそっとしておく方がいいのではないかと思える時がある。詩は表現とは無縁の領域に存在しているが、表現されることを拒みはしない。例えば詩人なら、それを言葉で現していくことになるが、結果はほとんど無惨といっていい。詩は本質的に虐待や殺戮に晒されている。詩と向き合うことで虐待されるのは詩人自身に他ならない。ゆえに、詩人にとって詩とは「なる」ものである。

 2014年6月に、TAICHI-KIKAKUの「喜びの島 ~2014〜」を拝見した。冒頭、郵便配達夫があらわれ、何語でもない唸りで喋り出したとき、久しく忘れていた温かい衝撃を私は受けた。ここから映像、マイム、身体詩、言葉、それらがモザイクのようにちりばめられ、しかし棚引く靄のように継ぎ目のない壮大な詩を、観客はTAICHIの舞台に見ることになる。

 物語の終盤、青い衣を纏った女がひとり、ゴンドラを漕いでゆく。やわらかだが確かな白い手のひらめきと、悲壮にも恍惚にも見える表情。言葉は無い。ここでは女自身が詩になっている。すると倒れていた男がむっくりと起き上がり、おもむろに「リヤ王」の台詞を力強く、唱え始める。そこには言葉がある。坪内逍遥が磨いた言葉は、一糸の襤褸をもまとわず、今ここで詩になっている。明確に異なる二者の表現だが、しかしそれぞれの詩は打ち消し合うこと無く、今日の舞台という、ひとつの詩に収束し、熱を帯びて、拡散する。…傍らに白布を纏った死者が立っている。そうか、私はあなたに会いに来たのかもしれないが、あなたが目の前に見えているにもかかわらず、果てしなく遠いのも知っている。だから私たちは、いつも「それになる」ことで世界の中心、囀りも唸りもない、大きな沈黙に融けようとする。

絶句して、幕。私は拍手が起るまでの短い時間に、全ての聴覚を預けた。

 


身体詩「friendーそのひ、しんでゆくひとー」をみて

心地よい感情が[わたしのなかを]流れた
西堂行人氏 劇評

 TAICHI-KIKAKUの「friendーそのひ、しんでゆくひとー」を見て、久しぶりに心地よい感情が「わたしのなかを」流れた。何か清新な気持ちに心が拭われたのである。 とりわけ、大橋瑶介と森村留美子の二人のパフォーマーの表情がいい。おそろしくピュアなのである。

 日本という先進消費大国に生きていると、物事を懐疑的に見ることが習い性になってしまうが、彼らの表情の曇りのなさを目の当たりにすると、そうした心性は不思議に掻き消されてしまうのだ。 彼らの表情はもしかすると日本の文化土壌からもっとも遠いのではないだろうか、そんなことも考えさせられた。

 おそらくその要因を探ってみると、彼らがアジアの名もない集落を訪ね、アフリカの奥地に赴き、そこで彼らのなけなしの身体でコミュニケーションを通わせてきたことと無縁ではなかろう。彼らは日本にはない別の文化を確実に潜り抜けてきたのである。

 今回の舞台では、パフォーマンスのあいだにさし挟まれた田渕英生の映像がそれをよく物語っている。 モノクロのいささかざらついた質感の映像に、アフリカのある部族の民たちと踊り興じる彼らの姿が見事に映し撮られていた。このフィルム自体、とても貴重なものだが、それが上演と合体することで、突如アフリカの風が劇場のなかに吹き込んできたのである。これは得がたい体験ではないか!

 今回のパフォーマンスでも言葉は使われない。一本の白い布で舞台上に円を縁取り、その周辺を二人のパフォーマーが執拗に円運動を描く。それは永遠に続く人生の旅であり、少しづつ死へ向かう時間の喩かもしれない。だがその死はすぐさま新たな生へと輪廻する。そこには祈りにも似た情感が渦巻くだろう。

 セリフのない身振りだけの表現を彼らは「身体詩」と称しているが、言葉という文化の手前にある感情、思いを観客と共有することで、見ている人間を観客以前の「ただのひと」にしていく。

彼らのパフォーマンスに立ち会うと、心の鎧を解除し、豊かなコミュニケーションの波を沸き立てていく強い力が発生するのだ。

 

TAICHI-KIKAKUのパフォーマンスについて 
空間に描く“人間讃歌”の詩
七字英輔
劇評 

TAICHI-KIKAKUのパフォーマンスは、空間に描く“人間讃歌”の詩である。

 かつてのTAICHI-KIKAKUは、パントマイムを駆使して、日本の都市に住む平均的な勤労者の日常をユーモアとペーソスで切り取り、時にはそこに不条理までを感じさせるヴォードヴィル風のパフォーマンスを行っていたが、1988年に初めてフランス公演を行って以来、毎年海外公演を積み重ねるなかで、彼らの表現は少しずつ変容してきた(その間、95年には、カイロ国際実験演劇祭において大橋瑶介が最優秀男優賞を受賞 している。これは、96年に来日し高評を得た、モルドヴァのウジャーヌ・イヨネスコ劇場  『ゴドーを待ちながら』でエスドラゴン役のペトル・ヴトカレウが受けたものと同じ賞である)。

 ことに昨年、赤坂・国際交流フォーラムで見せた『friend〜そのひ、しんでゆくひと』は、様々な異文化と接触し、交流してきた森村留美子と大橋瑶介が獲得した表現の水位がどのようなものであるかを端的に物語る、非常に興味深い公演だったといえる。

 そこには空を飛びたいと願う少女がいた。自分の部屋でひとり遊びに興じる孤独な男がいた。馬を引く農民の男や鳥の脚にぶら下がって下界を眺める少年、自転車ではるか遠くまで来てしまう男もいた。戦闘機の銃撃にさらされて逃げまどう人や、狙い撃ちされてあっけなく死んでしまう赤ん坊もいる。浮浪者もいれば、公園での散策を楽しむ子供連れの夫婦もいる。悲劇もあれば喜劇もある。つまりは「世界」と「人生」そのもの。人と人の出会いから死、そしてまた生へと、それは無限に循環していく。

 舞台に敷かれた円環状の帯は、それを象徴的に表すものだった。このTAICHI-KIKAKUの舞台が美しいのは、そうした人生の真実を最もシンプルな形で表現しているからだ。そこにはもう、パントマイムという演劇上の技法すら、あらわな形では存在していない。やはり身体が描く“空間の詩”としか言いようがないのだ。

 そしてその間を繋ぐ「映像」が、この間に彼らが歩んできた足跡を絶妙に映し出す。 特に92年、93年と二度にわたって行ったアフリカのコートジボアールの、アビジャン、ジュラボグ村での体験が、このパフォーマンスにどれだけの力を与えているかを証し出 してみせる。野外での彼らのパフォーマンスを見つめる大勢の人々の、柔和な表情と優しさに満ちた眼ざしの温かさ

 孤独は癒され、世界に希望が灯る。

 最後に森村留美子が、客席へ降りて観客を抱擁するのは、そうした“出会い”をもたらした「世界」への感謝の気持の表れに違いない。

 

livepage.apple.co.jp「聴ィ−(コエル)。聴ィ−(コエル)。」
− TAICHI-KIKAKU 喜びの島 〜NIPPON・能楽堂バージョン〜

詩人は眠らない・三上その子の「し」的舞台評⑭
雑誌「詩学 shigaku」(2005年1月号、第652号)掲載
◆ 二〇〇四年十月二四日(日)
◆ 梅若能楽学院会館

◆ テーマ・演出 森村留美子
◆ モチーフ & パフォーマー 大橋瑶介 吉田朝 森村留美子
◆ 映像 田渕英生

 一月号という新しい年のはじまりに、この団体を紹介できることを幸せに思う。

「TAICHI-KIKAKU」− 一九八五年に、トランクひとつで世界を巡れるか、という実験から始めて、十六年。国や肌の色のちがう人びとと、彼らの思う「はじめの芸術」をわかちあってきた集団である。

その存在を知ったのは三年ほど前だった。詩集を出版し、朗読をするうちに、個人的に抱えた腑に落ちないもの、それが、たんに読む技術(大きな声では言えないが)以上の、体にまつわることらしいと直感し、言葉を体で表すことはできないか、などと思っている時、たまたま、前作「PILGRIM」のチラシを手にしたのである。

 身体詩。演出の森村留美子(以下人名は敬称略)は自らの表現手法を、そう名づけている。初観劇の晩に、私が見たものは、はたして限りなく純粋な、ひと、の姿だった。

三人の男女が裸の背中をこちらにむけ、腰を一枚の白い布に包み、ゆっくりと揺れている。群青の空。輝く月へと手をさしのべて。白虎社の舞踏にも似た、この世ならぬ美しさは、だがこの集団の場合、この世に「ある」ものの美しさだった。

アートでありながら、地に足がつき、観客とのへだてがない。人の体と詩の不思議な融合を感じながら、すぐ詩人でもある森村の詩集「光るなみだ」を買い求めた。

「はじめの芸術」という連作に、まばゆいばかりの一編があり、私は「ごめんなさい」としか言えなくなった。ポエジーの根源とでもいうべきものに、心も体も、まるごと寄り添って在ることの大切さが、染みわたってくるようだった。

 この出会いを出発点として、私の詩人観は変わっていった。詩人とは、文字だけを書く人のことではない、と。言葉は体とつながっている。誰もが作品を公にできる時代だからこそ、詩人は今いちど、己の身体性とふかく向きあい、その言葉や表現が真に身のうちから現れたものであるか、声で、体で、じっさいに探ってみても良いのではないかと。

 TAICHI-KIKAKUのメンバー、森村留美子、大橋瑶介、吉田朝、そして映像監督の田渕英生らが、足を運んだ国はじつに約二十ヶ国。

アフリカ、ヴェトナム、ベルギー、リトアニア、香港、等々。フランスでは四年にわたってワークショップを開き、エジプトでは大橋がカイロ国際実験演劇祭で最優秀男優賞を受賞、イタリアでは映画祭にも参加している。

当初はパントマイムによる不条理なコメデイだったという彼らの作風は、これらの旅により、研ぎ澄まされていった。現在の作品に宿る圧倒的な揺るぎなさは、実際に世界中を巡り、人はみなひとつである、と肌で知った者のみが持つ強さだろう。まさに体の経験に呼び活けられた表現である。その強度はまた、あらゆる魂が響きあっている、という森村の繊細な生命観を基調とすることによっても、支えられている。

 舞台上、水色のドレスを着た森村が、ゆるやかに手のひらをこちらに向ける、と、そこから何かがあふれ出してくる。

彼女はそれを「気エネルギー」と呼ぶ。人と人、人と物とが伝え合う、目に見えない大切な、何か。そこに彼女の言う「ふへんてきな神様」が宿る。森村は、霊(ひ)のとどまる宮としての「人=霊止(ひと)」という日本語の言霊、そのものを、体から発するかのように舞台に立っている。「日本人だからこそ身体詩を生み出せた」と語る彼女に、ふと、和歌の前の平等、という言葉を、思い出した。

 その昔、大和言葉の平明な言霊の力を、歌の形にできる者は、みな日本の歌詠みびととして、平等に尊ばれた。万葉集には、天皇の歌から、庶民、女性、外国人、罪びとの歌まで、等しく集められている。他国に類を見ない、言霊を中心とするへだてのない調和の感覚は、そのままTAICHI-KIKAKUのパフォーマンスの印象でもある。

 だがきれいごとだけではない。世界を見るということは、時代を知ることでもある。

前回と比べ、「喜びの島」は、死や痛み、激情のイメージが増え、心洗われるものを越えて、胸に迫る舞台になっていた。冒頭、吉田演ずる郵便屋が観客に手紙を配って、自分も客席に座る。と、コートジボアールでのパフォーマンスの映像が浮かび、楽しそうな笑い声のあと、二〇〇二年にその町が内戦に巻き込まれた、と告げる文字が映る。舞台に布で描かれた円のなかで、大橋が三ヶ国語でリヤ王を練習する役者を、ときにユーモラスに演ずる。が、しだいに追い詰められる彼の目

の前に垂れてくるのは、首吊りの縄である。不吉なその縄は、郵便屋によって、森村演ずる、もう死んでいるかもしれない詩人にも、届けられる。手紙によって交流する役者と詩人。能楽堂にふさわしい、此岸と彼岸の物語。

シーンは、スライド芝居のようにゆっくりとした明滅の感覚でつながる。青く光る海原と、小舟の映像が、くりかえしはさまる。やがて三人は舟に乗り、ボサノバが流れる喜びの島らしき土地へたどり着く。が、その空にも爆撃音が。海外の街の映像に、奈良長岳寺の地獄絵が、淡々と、二重うつしになってゆく。舞台端には、劇中ずっと、白い布にくるまれた死体のようなものが横たわっている。

 真っ赤にそまった舞台を背に、詩人はひとり、舟を進める。見開かれた目は、盲人のようでもある。絶望を見まいとしているのか、喜びの島だけを見つめているのか。狂想曲が響き、突進を繰り返すリヤ王。詩人が叫び、郵便屋は呼びかける。「誰か僕に手紙を届けさせてください!」。はじめに配られた手紙が客席から集められ、死体とおぼしきものの上に届けられる。と、その白い存在が、ゆっくりと身を起こす。まるで、手紙を読もうとするかのように。

 私はそこに「ふへんてきな神様」を感じた。死せる魂の集まり、としての。文明の起点を道具ではなく、墓と見るとき、私たち人類はその行く末に平和な未来を期待できる—どこかでそんな考えを、読んだことがある。墓を建て、花を捧げ、亡き人の喜びや悲しみを思う時、遺された者は、支えあうという知恵を学ぶのだ、と。

 すべての人や物の魂とつながるアニミズム的な世界観こそ「はじめの宗教」であり「はじめの芸術」であると、TAICHI-KIKAKUは語る。「はじめの芸術」の再生を祈ってやまない彼らの行為は、他の似たような劇団とは一線を画している。

ノンジャンル作品で海を渡る多くの劇団が、世界平和を語りつつも、実際に、ひとと魂でつながりあうための丁寧なプロセスを踏むことはまずない。善し悪しはともかく、彼らにとって、それは交流というより、野心をかなえるための遠征に近い。

が、TAICHI-KIKAKUの十六年間の足あとは、その記録に映る人々の表情がくっきりと示すように、ひとの共存という「喜びの島」を探すために放たれた、ノアの鳩の長い旅路なのである。

 詩人が舟を漕ぐ、細く美しい音。森村の声がくり返す「キィー。キィー」という微かな音は、ひとりひとりが、今こそ胸の底から平和の水を汲み上げようとする、つるべの音のようだ。街角で、駅で、ひとりの部屋で、音はよみがえる。

なんどでも。私の耳に。けしてとぎれることのない、呼びかけとして。

 

「身体詩−−body poetry」
中川奈美(「癒しの美学」著者)

 白い衣装を身にまとった三人がサークルの周りを廻りはじめる。平面なのに螺旋を彷彿とさせ、不可思議な引 力に私達もゆっくり巻き込まれていく。地下鉄を降り、このホールに着いてチケットを切ってもらい、さっきまでロビーに咲く花々を観賞していたのにすでにその世界は遥か遠くて……。厳かな儀式に参入するように、漕ぎ出した舟に揺られ、心のなかの限りなくやさしい懐かしいところへいざなわれて——。

 昨日、TAICHI-KIKAKUから公演案内が届きました。3月14日から16日まで東京の国際交流基金フォーラムにて、前作『PILGRIM』に続く2年ぶりの新作『喜びの島  〜Periode bleue 〜』が上演されるそうです。

 1988年のパリを起点に、ポーランド、イタリア、ギリシア、香港、コートジボアール、エジプト、イスラエル、ヴェトナム、マケドニア、ルーマニア、ブルガリア、クロアチア、ハンガリー、サラエボ、コートジボアール、セネガル…など世界20か国で公演を続けてきたTAICHI-KIKAKU。

 プロデュー サーでパフォーマーの一人でもある大橋瑶介さんと知り合ったのはまだTAICHI-KIKAKUができる前、今から18年ほど昔、ヨガや瞑想の集まりでの ことでした。定期的に催されていたその集まりもいつしか散り散りになって、ほとんどの人々と音信不通になっていました。俳優として公演ごとに案内をいただいていた大橋さんからの便りもやがて途絶え、私自身ものを書く仕事を始めてからはその集まりのことを思い出す暇もないほど高速で日々を駆けていました。

そして今から8年ほど前、一通の封筒が届いたのです。差出人はTAICHI-KIKAKU。音沙汰のなかった何年かの間、大橋さんは表現者として世界中を駆け巡っていたことを知りました。演目は『いきるひと』。同封のチラシに綴られた演出家でありパフォーマーの森村留美子さんの詩も素晴らしかった。読み返すたび幸せが心に降りてきたこと、今でもはっきりと覚えています。

舞台は”観た”というよりも”体験した”という方が相応しいものでした。終始客席に座ったまま、拍手以外とくに動きもしゃべりもしなかったのに”体験”は おかしいでしょうか。でも揺さぶられたのですよ、強く心が。否、心だけではなく、身体中をとりまく”気”が揺さぶられ、揺さぶられ、浄められ、終演後、深い旅から戻った時のような感慨がもたらされたのです。こうして大橋さんと再会、そしてTAICHI-KIKAKUと出会ったのです。

 彼らのパフォーマンスには「身体詩−−body poetry 」という名前がついています。それは《空間に描く身体の詩》。念と等しく心身の動きにも「言霊」(言葉の呪力)は宿り、それが調和につながるものであれば 人を含む森羅万象と響き合えるはずです。毎回、森村留美子さんが両手を翼のようにはためかせてゆく美しい場面があります。ひらひらと輝き舞い踊る指先はひとつのメディアとして虚空にエネルギーを放ち、そのエネルギーで万物へ”幸”の祈りを紡いでいく。プシュケのよう……といつも見とれてしまいます。プシュケ(psyche)とはギリシャ語の「蝶」であり、神話に登場する愛の神クピトの妻となった娘の名であり、「魂」を意味する言葉でもあります。

 森村留美子さん、大橋瑶介さん、吉田朝さん。この3人のパフォーマーはひとたびステージにあがると冒頭にも書いたように観る者を魂の澄んだ域内へと導く使者となります。とてもさり気なく。けれども全身全霊で。おそらく世界中どこの場所からでもTAICHI-KIKAKUのスピリットは、人から自然、天空へ と響いてゆくと思います。これからもずっと。

 百聞は一見にしかず。機会がありましたら、ぜひ国際交流基金フォーラムに足を運んでみてください。

 舞台や映画を観た後、食事をしながら友人と感想を語り合うことがあります。手放しで喜べるエンターテインメントやハリウッドの娯楽作品などは、終演後に仲間とビール片手にわいわい盛り上がったり、お洒落なレストランでディナーを楽しんだり。けれども深い感銘を受けた作品と出会った後は別。できればただお月様の下を黙々と歩いていたいのですよ。心うごかされた作品であればあるほど、街(現実)を皮膚で呼吸しながら、表現者達のイデアを咀嚼し交わっていく時間が要るからです。いきなり日常に降りていくと、手元から風船がすり抜けてしまいます。一度クールダウンするための涼しい風が吹いていたらなお嬉しい。ひと駅分くらいは軽く歩いてしまいます。歩いているうちにやがてお腹がすいたら、コーヒースタンドのサンドウィッチでじゅうぶん。

TAICHI-KIKAKUの舞台を観た後も、赤坂から六本木まで歩いたことがありました。知人が経営するお店のカウンターに辿り着き、温かいスープをいただいて。その後、マスターやお客さん達となぜか進化論について語り明かしたのですが、かつて大橋さんと出会ったヨガや瞑想の集まりはこの店のすぐ近くであったんだ……と気づいて。

時の流れと、廻りながら上昇してゆく螺旋のイメージが重なったのでした。

 

幸せを祈り続ける 〜TAICHI-KIKAKU〜
(2006.6.演劇タイムズより)

●TAICHI-KIKAKU

 1985年、主宰モリムラルミコと代表オーハシヨースケの2人でTAICHI-KIKAKUを結成。2年間の実験的活動を経て、1988年にパリでの公演を皮切りに海外活動を開始。21世紀の舞台芸術“身体詩”を生み出し、世界20ヶ国以上で公演を続けている。

 “身体詩”とは、「言葉を超えた新しい演劇」である。国や文化、言語を超えて、世界中の人間にそなわっているもっとも普遍的なもの〈気エネルギーの発露と交流〉を表現の中心に置いた全く新しい字幕や通訳を必要としない演劇。

 死生観、輪廻など精神科学的なものを、宗教ではなく芸術として作品化してゆこうとする演出のモリムラルミコの生み出すTAICHI-KIKAKUの作品世界は、「気エネルギーを使って空間に描かれる身体(からだ)の詩」として、カイロ国際実験演劇祭でオーハシヨースケが最優秀男優賞を受賞するなど、世界各国の演劇祭などで観客を魅了している。

●主宰のモリムラルミコさんと代表のオーハシヨースケさんにお話をうかがいました

 宗教とは関係なく、輪廻や死生観など精神科学的なものを芸術として表現してゆくことで、その 表現に触れた人が少しでも“愛の心を活性化することのできるような表現”のみを生み出していきたいというモリムラルミコの“祈り”。そこから生まれた「はじめの芸術」を中心軸にして、世界20カ国以上で公演を続けているTAICHI-KIKAKU。

 彼らのそのエネルギーは、一体どこから生まれてくるのでしょうか。今回は、主宰であり、作・演出を手がけるモリムラルミコさんと、代表でありプロデューサーでもあるオーハシヨースケさんにお話をうかがいました。

Q・身体詩をもって世界に出ようと思ったきっかけは何ですか?

モリムラ:よく、日本に対するアンチテーゼがあるのではと思われたり、そういう答えを求められたりしましたが、実は全くそういうことはないんです。ただ、私の気質と言うか、登山家が「山があるから登る」というのと同じように、そこに「世界があるから出て行く」。それだけなんです。1つのところに収まらずに、開かれたところに出てゆきたいという性格なので、演劇をするなら世界に出てゆきたいと、初めから強く思っていました。その考えに賛同してくれたのがオーハシヨースケで、海外に行くんならパリに行きたい!ってことになったんです。

 私たちは、もともとはシェイクスピアなどの台詞劇もやっていた演劇畑出身なんです。でも、そういうのだと大掛かりなセットが必要で、世界各国を廻るには荷物が多すぎるでしょ。勿論、言葉の問題もあります。だから、新しくどこにでもすぐに行けるものを作ろうということになったんです。そこで、舞踏やパントマイムなどの異分野の方々とコラボレートしながら、ボディーランゲージを中心としたフィジカルシアターで東京を拠点として関西や北関東を中心に日本を廻りました。そうやってゆく中で、舞台美術もトランク1つに収まるように余分なものをどんどんと削ぎ落とし、必要最小限で最大限の効果を 生み出す実験を繰り返していったんです。

 そうして2年経った時、これなら行ける!という確信が出てきました。そこで、公演をする場所を探していたら、パリの日本語学校のギャラリーで企画を募集していたんです。早速応募したら企画が通ったのでパリに出向いき、路上などでパフォーマンスをして宣伝をしました。初めてのパリ公演でしたが、多くの方が集まってくれて大好評でした。

 その公演を観てくれていた方が、終演後に楽屋に訪ねてきてくださって、「劇場ディレクターを紹介したい」と言ってくれたんです。勿論、1回きりの記念公演で済ませるつもりなんてありませんでしたから、早速劇場ディレクターにお会いして、パリ200年祭に出演することが決まったんです。これが、私たちの20年以上続く海外公演の幕開けになりました。

Q・“祈り”という理念に辿り着くには、何かきっかけがあったんですか?

モリムラ:これも、演劇を始める時点ですでに私の中にあったものなんです。私は無宗教ですが、必ずどこかに神様がいる、と いう想いは子どもの頃から持っていました。それは一人に一人ずついるかもしれないし、もっと大きな存在かもしれない、でも、きっとどこかで神様が見ていてくれている。そう思うんです。

 そして芸術というのは、目に見えないものを見えるようにするもので、作品というのは、目には見えない普遍的な神様にささげるものだと思っています。演劇というものは、歴史をたどってゆけば神に祈る行為から生まれたものですし、その“神に祈る”という行為は、言い換えれば“人の幸せを祈る”という行為だと思 うんです。

 このことを、「はじめの芸術」と私たちは言っています。そして、私たちは「はじめの芸術」を通して人々の愛の心を活性化させてゆきたい、それがもともとの原点にあるんです。

 20年前、始めたばかりの頃は、正直言って奇異の目で見られました。バブル真っ只中の頃には、「愛の心」なんて言っても理解してもらえなくて、もっと社会に対するアンチテーゼを唱えてもらえないと記事にならない、なんて言われたりもしました。でも、本当にアンチなんてなくて、ただただ祈りの気持ちだけしかなかったので、海外でどれだけ受け入れられたとしても、日本で理解してもらうのには本当に苦労しました。

Q・ヨーロッパから中東など、さまざまな国に行っていらっしゃいますが、どうやって公演地を選んでいるんですか?

モリムラ:行く国は自分たちで決めてはいません。私たちの舞台を観た人が、必ず次の国を紹介してくれるんです。縁のあるところに引き寄せられる感じなんです。終演後に、クロアチアの女優さんが訪ねてきて、「あなたたちはサラエボに行くべきだ」と熱く語られて、内戦の間でも続けられた「メス・サラエボ演劇祭」に参加させてもらったりもしました。劇場には、あえて内戦時の弾丸の後も残されているような場所でした。何故か、悲しみの歴史が深いところに導かれているような気 がします。

 ただし、決して無計画ではないんですよ。行くとなったら、とことん計画を立てて、完璧なまでに準備をして出かけます。ただし、公演をするにあたっては全くの無計算です。無計画と無計算は違うんですよね。

 私たちの公演では、人間の持つ「気エネルギー」というものを大切にしているんです。「気エネルギー」というのは、死んだ身体からは決して出てこない、生きた動物体からのみ発せられるもので、感情よりももっともっと奥にあるものなんです。単純な例をあげれば、人と話していても「あれ?この人言っている事と 思っていることが違うんじゃないかしら?」なんて思う瞬間ってあるでしょ。あれは気のせいでもなんでもなくて、その人の「気エネルギー」のせいなんですよ。

 怒っている人からは、どす黒いエネルギーが発せられているし、笑っている人からは、明るい色のエネルギーが発せられているんです。そして、この「気エネルギー」を舞台に取り込むことで、お客さんと感情よりももっと深い部分でダイレクトに交流が出来るんです。

 ただし、何か含みがあったり欲があったりすると絶対に駄目なんです。自分たちを真っ白な状態にまで持っていかないと、奥底から祈りとしての作品をささげる ことは出来ないし、「気エネルギー」なんてものも取り込むことが出来ません。だから、徹底的に準備し、計画を立て、無計算で舞台に臨むんです。

 昔、第三舞台の鴻上尚史さんに「聖地なき巡礼だ」と言われたことがありますが、まさにその通りなんでしょうね。私たちはたった4人のメンバーですが、自分たちのポリシーを崩すことなく祈り続けてきたからこそ、多くの国の方々に共鳴共感していただき、いろいろな国に出向き、さらに新しい作品を生み出し、今も なお活動を続けていられるのだと思います。

Q・世界を巡り、日本に帰ってきたときに何か感じることはありますか?

オーハシ:先日、モントリオールから帰ってきて思ったんですけど、日本には幸福感の薄さを感じるんです。右脳と左脳のバランスが悪いというか、ふと立ち止まって空を見上げたり、1つのものを大切に使ったり、そういう感覚がなくなってきているように思いますね。本当の豊かさや美しさを忘れかけているような、人が大切にしなければいけないものの軸がずれてしまっているように感じます。今までが、不安をあおれば人が集まる、というマスコミの戦略の悪いところに乗せられてしまう部分が多かったのかもしれません。

 ただ、僕は日本の高校生に芝居を教えたりもしているんですけど、「愛」「祈り」という僕たちのメッセージをとてもまっすぐに受け止めてくれているように感じるんです。大人たちも、徐々に僕たちの言っていることを理解してくれるようになってきました。昔は全く受け入れられなかった「愛の心を活性化したい」という話も、ただ聞いてくれるだけでなく、賛同してくださる方が増えてきているんです。

 バブルの時代、そしてバブルがはじけて何かに熱くなることを馬鹿にするような時代を経て、今ようやく大切なものをもう一度取り戻そうという動きになってきているのかもしれません。

 20年以上活動をしてきて、今までは日本のマスコミで取り上げられることは少なかったのですが、今年に入ってからは、NHKラジオ放送で4夜連続で僕たちを取り上げていただいたり、取材の依頼を頂くことが多くなってきました。先ほどお話したように、悲しみの深いところに導かれているということから考えると、日本が僕たちを呼んでいるようなそんな気がしてならないです。勿論、今までも年に1回は日本での公演をしてきましたが、これからも日本での活動に力を注いで行きたいと思います。

 

 人を包み込んでくれるようなモリムラさんの不思議なオーラと、どこまでもまっすぐで澄んだ瞳をしているオーハシさん。お二人と話していると、何だか緊張がほぐれて、心が癒されてゆくような感覚になりました。

 人類の歴史と共に発展してきた演劇という芸術の原点に戻り、それを貫き通す強い心と、人々の幸せを祈り続ける清らかな心。これが、TAICHI-KIKAKUが全世界から求められる所以なのでしょう。

 

生と死を往還する旅人たち——TAICHI-KIKAKU『金色の魚〜輪廻〜』
劇評家 七字英輔氏

 冒頭にルーマニアの古都シビウの家並みが映される。赤瓦の屋根の間にぽっかりと空いた、切れ長の眼をした窓の数々。トランシルヴァニア州独特の建築様式を示すそれは、多分、通気孔だ。しかし、中央広場に立ち、周囲のその眼に見つめられると、思わず知らず畏怖の念に打たれる。ネパール・ヒンドゥー教寺院の塔の壁には「神の眼」が描かれていて、四周を見すえているらしい。ここでも、シビウの街角に佇むオーハシヨースケやヨシダ朝、モリムラルミコが映され、そこに「私がみつめているのではなく、私はみつめられているのかもしれない」の字幕が重なる。「なぜなら、私たちは《彼岸》に対しては盲目なのだから」。

 三人は今度も旅をしている。舞台にはレール模様の円形の枠。各々大きなトランクをぶら下げて現れた彼らは、飲み食いしながら列車の旅を楽しんでいたところを車掌に捕まって、車外に放り出されてしまう。猛スピードで走るクルマにも拾ってもらえず、トランクから取り出したのは一枚の金色の布。三人はそれを水に浮かべて、それに乗り込む。そこから始まる不思議な旅——。多分、この金色の小舟(カヌー)が表題の「金色の魚」なのだろう。彼らはその「カロンの舟」ならぬ「金色の魚」に導かれて死出の旅をする。つまりは《彼岸》へとそれぞれが踏み出していくのである。

「金色の魚」は、パウル・クレーが幻視した空想の魚でもある。クレーの絵では、深い青を湛えた水の中で、まるで内部から発光しているかのように金色に輝きながら悠然と泳いでいるが、「ひとはその姿を自らの死せる瞬間、その一度にしかみることができない」と、公演チラシにはある。嬉々として大空を飛んでいたパイロット・オーハシが砂漠に不時着し、幼子の死体を見つけたあげくに自ら砂に埋もれてしまうのも、あるいは水着姿のヨシダが浜辺で海水浴客たちとダンスに興じながら、激しい雷雨に見舞われ、ふと気づくと独りきりで、やがて寂しく死んでいくのも、「金色の魚」を見たせいなのだろう。

しかし、TAICHI-KIKAKUの舞台では、なぜこれほど「死」が描かれなければならないのか。

この舞台で最も感動的なのは、一人になったモリムラがトランクを下げて悄然と舞台奥へと歩き出すと、いつの間にか左右から死んだ二人がモリムラに寄り添って立つところだ。そして、そこに映像作家の田渕英生が撮り続けた三人のかつての「旅」の映像が実写でかぶさる。舞台中央で、椅子に腰掛けながら、それを見つめるモリムラ。舞台の「旅」が現実の旅と二重写しになる見事な展開だ。エジプト、イスラエル、コートジボワール、ヴェトナム、そして戦禍のサラエボ。そこでは多くの出会いがあり、別れがあった。人と交歓する喜びがあり、現実に多くの嘆きも耳にしたろう。生と死が不断に綾なされていることを否応もなく実感する、それが彼らの旅であったに違いない。その意味で、彼らの「旅」そのものが生と死の連続系としてある。

そして、「旅」は、言うまでもなく人生の喩でもある。しかし、彼らの旅、そしてパフォーマンスは決して悲惨にはならない。なぜなら、私たちの生死は何者かに「見つめられている」からだ。

その視線を感じることが私たちの「生」を孤独から救う。『金色の魚〜輪廻〜』の舞台が語るのはそのことである。